ヒラエッセイ

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1999年6月2日(水) 酔っぱらいの基本

 僕はサラリーマンだ。
 しかも、平社員である。
 さらに、不景気で給料が減った。
 踏んだり蹴ったりのこの状況でお酒を飲んで、友達と「ぎゃははははは」とやったあとに一人っきりになると、単なる酔っぱらいになるのは当然のことなのである。
「うぃ〜。たうぅ〜」
 意味のない言葉を発し、目玉なんてトローンとしてしまって、膝を突っぱねたまま腰を前後ろに振ってバランスを取るという、みっともない格好。
 しかし、これこそが正式な酔っぱらいのスタイルなのだ。
「あ、そうだ。今日はちょいとJRからかっちゃおうかな」
 余計なちょっかいを出したくなるのも酔っぱらい。つまらないいたずらをしたくなるのである。
 それをいちいち口に出して言うのがまた、酔っぱらいなのだ。
 僕はズボンの後ろポケットから定期券を出し、にんまりと微笑んだ。
「これで、からかってやるのだ」
 飲んだあとに食べたニンニクラーメンとアルコールが混じった息が吹き出て、我ながら臭い。
 しかし、酔っぱらいは臭いのがあたりまえなのである。

 僕は今日、東京から真東に向かって我孫子に帰るいつものコースではなく、東京から総武線で南東へ向かい、千葉県の西船橋まで行った。そこで仲間と待ち合わせて酒を飲んだのだ。
 船橋からの帰りは武蔵野線で北上し、常磐線の新松戸に出た。そして新松戸からいつもの通り我孫子に帰ることになる。
 つまり、三角形の2辺を通って行ったような格好だ。
 問題は、僕が西船橋駅で定期券を使ったということだ。駅の自動精算機を使って精算をするときに僕は東京−我孫子間の定期券を使ったのである。西船橋はこの定期券の範囲にないから、当然精算額が発生する。
 そして、僕は知っているのだ。
 自動精算機は、ここで精算したことを定期券に磁気で記録するのである。
 西船橋で降りたことが記録された定期券を我孫子駅で使うとどうなるか。それは、キセルを警戒してアラームが鳴り、とうせんぼをするのである。
 つまり、この客は定期圏外の駅から乗って来たので、キセルをしているに違いない。だからこの定期券で素直に出してはいけないというわけなのである。
 先日飲み屋である鉄道会社の職員と話をしたら、こんな事を言っていたのだ。
「キセルをもし全部なくしたら、目のタマが飛び出るほどの利益が出ますよ。キセルをしたことがない人なんて、まずいないと思うな。定期券を持っている人がその利用範囲以外から電車に乗った場合、まず間違いなくキセルをするんです。するに決まってるんだ!」
 そうなのだ。
 するに決まっていると決めつけているから、アラームをならして蓋を閉めてしまうのである。
 もし僕が、西船橋から150円の最低額切符ではなく、ちゃんと定期券の範囲にある新松戸までの切符を買ったとしても、それを確認しようという機能は自動改札機にはない。
「我孫子−東京」と書いてある定期券なのに、我孫子駅ではアラームが鳴るのである。
 すると駅員が渋い顔をして、「こっちへ来てください」という。
 恐る恐る客がそこへいくと、駅員は勝ち誇ったような顔でこう言うのだ。
「お客さん、どこからお乗りになりました?」
 すると客は答える。
「と、東京……」
「ちがうでしょう、お客さん。ちょっと事務所の方に……」
 こうやって事務所に連れて行かれると、西船橋で乗ってキセルをしたという証拠を突きつけられて、さんざん絞られてから罰金を取られるのだ。
 そこで僕は、これを逆手に取ってやろうという作戦なのである。
 僕はちゃんと210円を払っているから大丈夫。
 キセルだと150円だから、60円の差額。たった60円で冤罪ごっこができるのだ。

 電車の中では知らぬあいだいに眠ってしまった。
 酔っぱらいはすぐに寝てしまうのが基本なのだ。
 立ったままでもよだれを垂らして眠ってしまって、それでいて意外と倒れない。
 たまに足がガクッと折れて倒れそうになるけれど、ダウンを耐えるボクサーのように、持ち直し、またドアに寄りかかるのである。
 僕は我孫子駅に到着すると、左右にヨタヨタしながらエスカレーターに乗り、そして改札へ向かった。
 改札には一番端にだけ駅員がいた。彼がキセルチェックマンなのだ。
 人を疑ってかかるような目をして、客をジロジロと睨み付けいてる。
 僕はあの目つきが嫌いなのである。お客様を見る目じゃないのだ。
 僕はズボンのポケットから定期券入れをとりだし、定期券を抜きだして自動改札機に滑り込ませた。
 さて、ここからがショーの始まりだ。
「キンコーン、キンコーン、キンコーン」
 思った通り、自動改札機は不愉快な音を鳴らしながら、僕の行く手を遮ったのである。
 しかし、僕は構わず閉じた小さなドアを脚力で押し開けて、改札の外に出た。
 すると案の定、駅員が飛び出してきて僕の前に立ちはだかったのだ。作戦通りだ。
「お客さん、困りますよ。ちょっとこっちに来てください」
 ざまーみろ。僕の筋書き通りだ。
 今駅員は、ぼくを無賃乗車だと疑っている。しかし、僕がここで定期券を見せれば彼の疑いは一気に「キセル」に向く。そうなると奴は鬼の首を取ったように威張り腐るに違いないのである。
 それを叩く。これが快感なのだ。
 今に奴は偉そうに「切符を見せろ」といいだす。そこに僕は210円の切符をたたき付けて、このキセル発見システムをあざ笑ってやるのだ。
「今入れた定期を見せてください」
 ほら来た。
 この偉そうな態度。完全に自分が勝者になっていると言う態度なのである。
 僕は彼のめをしっかりと見つめながら、水戸黄門が印籠を出すように、堂々と彼の目の前に定期券を突きつけてやったのだ。
「ふっふっふ。ちゃんと持ってますよ、この通り。東京−我孫子間。それなのに困るな、このポンコツ自動改札機。何を血迷って我孫子駅で僕を遮るかなぁ? ちゃんと点検してるの、ちみたち?」
「お客さん」
 今度は切符を見せろと言うのだろう。筋書き通りだ。
 僕は密かにズボンのポケットに手を入れて、切符を掴んで準備をしていた。
「ほう、なんざんしょ。まだ何かあるんですか、駅員さん?」
「ここは取手駅ですよ、お客さん」
「へ?」
 一駅乗り越していたのであった。
 こうした失敗も、酔っぱらいの基本なのである。

1999年6月7日(月) ドナドナドナーはタイミング

 僕は毎月一度、心臓の専門病院へ通っている。
 もう3年以上になるから、待合室にいる面々の中にも顔見知りの人が結構いるのだ。
 顔見知りと言っても話をしたことがあるわけじゃない。顔に見覚えがあるという程度で、きっと街で見かけたら、
「どっかで見たなぁ、あのジイさん。だれだっけ?」
 と、悩む程度のものなのである。
「あのジイさん……」という例が出るとおり、この病院には年寄りしかいない。要は、心臓の初期不良や耐用年数半分以下での故障はあまりなく、かなりくたびれてからうまく動かなくなった心臓の持ち主ばかりが来ているのだ。
 この病院は一応すべて予約制になっているのだけれど、実際はどういうわけか2時間くらい待たされる。
 いろいろな公共機関で何もかもが便利になりつつある昨今、病院の待ち時間だけはちっともよくならないのは実に不思議だ。
 待っている間は暇だから、どうしても雑誌や本を読むことになる。それでも読書用に机があるわけじゃないので、長椅子に腰掛けたままになるから、しばらくすると肩やら腰やらが痛くなってくる。
 すると、本をしまって待合室をキョロキョロしたり、人間ウォッチングにはいるのだ。
「心友会入会のご案内」
 壁を見ると、こんなのが貼ってある。
 心友会というのは心臓がおかしくなっちゃった人たちが慰め合うという、そんな会なのだ。
 入会した人に聞いた話しだと、しょっちゅう会員が死んでいくので、サメがいる海に放り出されて、プカプカ浮いている間に周りの人が一人ずつ食われていくような、そんな気分になるらしい。
 それでいて、「○○さん、残念だったねぇ」と語り合いながら自分が生きていることの喜びをかみしめるという、けったいな会らしいのだ。
 そんなのを読んでもしょうがないのでまたまたキョロキョロしていたら、隣に座っていたおばさんが目の前にあったカードを一枚手にとった。
 ドナーカードだ。
 自分が死んだら内臓を他人様に提供してもよいと意志表示をするあれなのである。
 おばさんはそれをしばらく見つめると、おもむろに記載をはじめた。
 僕だったら家族に相談するとは思うけど、このおばさんはせっせと書き始めたのだ。
 角膜・肝臓・腎臓……。
 おばさんは、提供してもよいという内臓の一つ一つに○をつけていった。
 しかし、どうしてこんなに細かく部品を分けて申告するのだろう。ドナーになるといいながら、「肝臓だけはやらない」なんていう人がいるとでもいうのだろうか。
 そんなことを思っていた僕だけれど、「おお、これも意味はあったか」と思う瞬間がこのすぐあとにあったのだ。
 心臓……。おばさんはここにも○をつけたのである。
 ここは心臓の専門病院。心臓が壊れた人だけが来ている病院だ。しかも、かなり悪い人の集まりなのである。
 そんな人の心臓を貰っても、こればかりは「ないよりはまし」ということにはならないだろう。
 しかし、おばさんは自分の立場をすっかり忘れいてるのか、まるで気がつかないでいるのである。
 僕はなんだかおかしくなってしまって、顔を膝に突っ伏して、一人でクスクス笑ってしまった。
 そして一通り笑ったところで、僕はこのおばさんにそのことを言うことにしたのだ。
 同じ心臓病同士、こういうことは笑いを含めながらでも話せるものなのである。

「あのぅ……ドナーですか」
「う、うん。まぁね。少しでも世の中の役に立てればと思うのよ」
「でも……」
「なにかしら?」
 僕は「心臓」の箇所を見ながら言った。
「他はいいですけど、そこだけは役に立たないと思いますよ、あはは」
 お互いに仲間同士、この程度は冗談で済む。そう思っていたのにおばさんの顔色は一瞬で変わってしまった。
 いったいなにが気に入らなかったのだろうか。
 そう思ってよく見ると、おばさんは先に臓器の項目に○をつけてから名前を書き始めたらしく、僕が「使いものにならない」と言ったとき、ちょうど名前と年齢を書き終えて、次の項目に○をつけている最中だったのである。
「女」
 タイミングが悪かったのだ。

1999年6月14日(月) 講習会

 1ヶ月ぶりに課長と一緒に講習会に参加した。
 このところ無料の講習会ばかりだったのだけれど、珍しく1人1万5千円もする講習会だったのだ。
 今回の講習会は、パソコンで動くユニックスOSについてのものだった。
 OSというのはオペレーティングシステムのことで、コンピューターを動かす基本となるソフトウェアのことである。今パソコンでメジャーなOSがWINDOWS98だ。
 時間になると、ひげを生やした禿オヤジが壇上に立った。
「えー、それではいまからパソコンUNIX(ユニックス)のLINUX(リヌックス)についての講習会を始めます」
 どこかの会社の副社長だそうだ。
 彼の会社は最近そのLINUXというOSでのシステム作りに力を入れているらしく、その説明というよりはむしろ、コマーシャルみたいな講習会だった。

「みなさんは、どんなOSを使っていますか? ええと、ヒラ商事のヒラリーマンさんいかがです?」
 彼のもとには、参加者の名簿があるらしい。
「はい。WINDOWS95です」
「ほほう。じゃ、サーバーは?」
「WINDOWS/NTです」
「ほほほう。では、何か問題は起きていませんか?」
「問題といえば、月に一度必ずと言っていいほど動かなくなります」
「それだ!」
 突然副社長がほえた。
「ダウンしてしまうわけですね?」
 なんだか僕の受け答えが彼の筋書きにぴったりらしく、非常にうれしそうな顔をして、なおかつオーケストラの指揮者のように白版のポインターを振り回しているのである。
「ええ。ダウンです」
「そのダウンは、どんなときに起きますか?」
「ええと、前回は日曜に……」
「それだ!」

 副社長はまたまた叫んだ。どうもこの「それだ!」が癖らしい。
 それは別にいいのだけれど、講習会の最初からすでに眠っている課長が、この「それだ!」の度に起きて、周りをキョロキョロ見てからまた寝るのである。
「そうでしょそうでしょ。そーなんです。WINDOWS/NTというのはどういうわけか、管理者がいない時を見計らってダウンするという、いやらしいOSなんです。日曜はたいがいシステム管理者は不在です。こういうときに落ちます。そうですよね、ヒラリーマンさん?」
 副社長は急に、非科学的なことを言いだした。
「いえあの、その前は月曜日に……」
「そーーなんです。WINDOWSは日曜日に落ちるんです!」
「火曜日のときも……」
「日曜なんですよ、なぜか!」
 興奮した副社長は人の話なんて聞いちゃいない。
「ではみなさん、この図を見てください」
 正面のスクリーンには今回の講習会の内容がきれいに整理されて映し出されている。
「これが当社で実験した際のWINDOWSとLINUXの信頼性の比較図です。お手元にお配りした資料には、さらに詳しく記載してありますので後でご覧ください」
 スクリーン画像にしても手元の資料にしても、実にカラフルできれいに作った資料だ。さすがにシステムのベンチャー企業なのである。
「ではヒラリーマンさん。WINDOWS/NTの他の問題点は?」
「問題というか、とにかく重くて遅いというか……」
「それだ!」
 また彼の筋書きに当たってしまったらしいのだ。
「そうなんです。とにかくWINDOWS/NTは重いのです!」
 またスクリーンの画像を切り替えた。
 いまの「それだ!」が特に大きな声だったので課長は目をこすってあくびを始めた。
「金払ってるんですから、起きていてくださいよ、課長」
「うーん」
 そんな課長をチラッと横目で見ながら、副社長は続けた。
「これはWINDOWS/NTとLINUXの速度の比較です。これを見ても一目瞭然です。私は自分のパソコンにいろいろなOSを入れますが、WINDOWSを入れるととたんに重くなります」
「おい、ヒラリーマン」
「なんすか課長?」
「オレのパソコンも、WINDOWSからあれに変えれば軽くなるのか?」
「なるんじゃないですかねぇ」
「んじゃ、そうすっかな」
「やる気ですね、課長」
「だっておめぇ、ノートなんていっても意外に重くてよ、もって歩くと肩が痛くなるんだ」
「やっぱり寝ててください」
「……なんで?」

 とにかくこの副社長はよほどマイクロソフト社に恨みでもあるらしく、WINDOWSを始めマイクロソフト社の製品や会社の体制についてケチョンケチョンにいう。
「この表を見てください。これがWINDOWSとLINUXの総合比較表です。このようにマイクロソフトは高い金を取りながらろくでもないものばかり提供しています。全く使いものになりませんね。それに比べてLINUXは実にすばらしい。お手元の資料もご覧ください」
 今まででもっとも鮮やかな、動きのある画面が映し出された。
 参加者たちはいわれるがままに前を向いたり手元を見てはうなずいているが、誰も、
「じゃ、どうして資料は全部WINDOWSで作ったんですか?」
 と質問しないところを見ると、うちの課長と同じく、かなりいい加減な参加者たちなのである。

1999年6月16日(水) 会議の結論は霊界で……

「やばいことになったな」
「そうですね。無料だって、常務にも報告してしまいましたし……」
「でも、確かに連中はそう言ったんだろ?」
「そうなんです。口約束だって、法律的には契約になるんですよね。でも、証明のしようがなくて」
 先日、我がシステム課ナンバー2の鈴木さんが突然他界してしまった。
 僕の目の前に数日前までニコニコして座っていた人が、急にあの世に行ってしまったのだ。
 健康に気をつけて、みのもんたが「奥さん、これが体にいいんです」と言ったものを全部食っても1000年生きるわけじゃないし、医者に止められた酒を好きなだけ飲んでも結構人並みに生きる。
 人間一度は必ず死ぬし、一度しか死なないのである。
 そう考えると死についてそんなにくよくよ考える必要はないのかも知れないけれど、働き盛りの人がいきなり死んでしまうと、結構困ったことになるのだ。

「とにかく確かに鈴木さんは僕に、『A工業の黒腹さんが、これはA工業の負担でやってくれると約束してくれてるんだ。それが今回の契約の条件なんだ』と言っていたんです。それなのに今になってそれは別料金だなんて……」
 A工業は無料サービスだと言っていたはずの作業を鈴木さんが死ぬと突然、有料だと言いだしたのだ。
「何も書類を取り交わしてないの?」
「ええ、担当者同士の口約束ですからね。それにあちらは営業課長ですから、信用していたんですよ」

 仕事の話をしていて、「言った」「言わない」でもめることほどみっともないことはない。
 しかし、担当が死んだとたんに「死人に口なし作戦」を繰り広げられては、腹の虫が治まらないのである。
 背景はだいたいわかっている。
 鈴木さんの死後、彼の仕事を調べていたら、その口約束した仕事が思ったよりもずっと費用のかかるものだと判明した。
 それを当社からA工業に連絡して、「本当に大丈夫ですか?」と言ったとたん、相手は「そんな話しはしらない」と、ケツをまくってしまったのである。
 担当者で何度かA工業と交渉をしたが、らちがあかない。
 最初のうちは「確かにそんな話もありましたが、確か無料では無理だと申し上げたような……」とあいまいなことを言っていた営業課長は上司の部長が同席するようになると、
「そんな話は最初からまるで聞いてない」
 の一点張りになってしまったのである。
 そこで、今後どう交渉しようか思案をしていたそんなとき、我が吉田課長が腰を上げたのである。
「ったくおめーらは……。いいかぁ。そんなおめー、あんなふざけた業者に言いたいこと言わせてよぅ、いったいなにやってんだ!? おし、ここは交渉の神様とうたわれたこの俺が話を付けてやる」
 誰が神様と言ったのかは知らないけれど、自信たっぷりの課長がついに登場となったのだ。

「そうはおっしゃいますが吉田課長。我が社としてはそういうものを無料でやるとは言ってませんのですよ、はーい」
「しかし、それを無料でやるというオプション付きで例のあの契約をすると、私は鈴木から報告を受けて承認したんです」
「いやはや参りましたな。当の鈴木さんがおられないのですから……」
 ここまでは今までと同じ平行線だ。しかし、この辺でそろそろ課長の切り札がでるはずなのだ。
 きっと課長は、A工業の営業課長のメモか何か、証拠品を持っているに違いない。
 だから、さんざん相手に「知らぬ存ぜぬ」を言わせておいて、それをバシッと机にたたき付け、一気に落とそうという「たたき上げ刑事作戦」を画策しているのである。
 そういう切り札があるからこそ、課長はあれだけ自信を持ってまとめ役を買ってでたはずなのだ。
「それじゃ、仕方がないですな。わたしゃどうもこの件をいい加減にはしたくない。ここは一つ、白黒をつけようじゃありませんか」
 課長の目が、メガネの奥で光った。ついに切り札登場なのだ。
「し、白黒……といいますと」
 A工業の部長も課長の切り札の存在に気がついたらしく、たじろいでいるのである。
 いい気味だ。
 課長はニカッと笑い、そして身を乗り出して言った。
「イタコを呼びましょう」
 げっ。
「イタコ? あの、死者を呼び出して自分に乗り移らせて喋る、あのイタコですか?」
 何を言い出すんだ、課長!?
「そうそう、そのイタコ。イタコを呼んで、鈴木に証言させます。な、ヒラリーマン。このあいだよ、イタコが田中角栄を呼び出すところ、一緒にテレビで見たよな?」
 見たことは見たけど、「まーこのぅー」なんていうやつで、ほとんど角栄のものまねだったのだ。
 みんなは苦笑いしていたが、課長は急にまじめな顔になった。そしてドスの聞いた声でさらに言ったのだ。
「どうすか? やっぱり死者を引っぱり出してまで商売の話はしたくないでしょう。ねぇ?」
 応接室はシーンとなってしまった。「人の死をいいことに商売を有利に運ぼうなんてとんでもない奴だ!」と課長は言いたかったのだろう。
 結局この課長の一言で、A工業は折れて、無料で作業をすることになった。

 この契約についての議事録が鈴木さんの荷物からでてきたのはそれから数日後のことだった。
 それによると、作業は「有料」だった。

1999年6月21日(月) 密かにザビエル

「いや〜もうあたしゃねぇ、本当に嬉しいもんで、ええ。本当なんすよ」
 我が社と取引のあるメーカーのS機械の課長、モンデマンが応接室で饒舌に喋りまくっていた。
「とにかくもう、久しぶりなもんで、なつかしいもんで……」
 あまりに機関銃のように喋るものだから、僕も上司の久留米部長もげっそりしている。
 モンデマンはかつて我が社担当の営業課長だったのだけれど、我が部の前部長に失礼なことを言って、出入り禁止になったのだ。
 それでしばらく来ていなかったのだけれど、去年うちの部長が交代になり、ほとぼりが冷めたこの頃になってまた会社に出入りするようになったのである。
 モンデマンの声としゃべり方は林家三平にそっくりだけど、セリフは「もう大変なんすから」じゃなくて、「……なもんで」と、なんでもかんでも語尾に「モンデ」がつく。

「もうねぇ、本当に不景気なもんで、なんにも売れないもんで、わたしら営業はもう大変なもんで。とにかくこうやっていろいろと部長さんにお話しいただいて情報交換できるのがありがたいもんで……」
 2年も出入り禁止だったもんで……あ、うつっちゃった……モンデマンはなんとか新部長のご機嫌を取り付けようと必死なのだ。

「しかし、久留米部長は髪の毛ふさふさですなぁ、あははは。いえね、ハゲは頭がいいなんて言いますけどありゃウソなもんで、頭がいいか悪いかは髪の毛じゃなくて形でわかるんですよ。なんと言っても久留米部長のようにひょうたん型がいちばん頭がいいもんで、つぎがカボチャ頭なもんで……」
 モンデマンはカボチャ頭なのである。つまり、あんたが大将わたし2番ですと、持ち上げているつもりらしい。
「ひょうたん頭でも特に久留米部長のようにふさふさが特にいいもんで……」
 しかし、久留米部長はずっと仏頂面で、早くモンデマンが帰らないかとイライラしている。
 モンデマンもそんな状況がわかっているから、なんとか面白いことを言おうとしているのだ。
「前の大前部長さんはハゲでしたね。ハゲってのもいろいろあるもんで、大前さんのハゲはサムライ型ハゲの変形なもんで、あまり出世するタイプのハゲじゃないもんで……」
 急にハゲ占いをはじめた。
「全体がだんだん薄くなってくるまだらハゲはだいたい頭がわるいもんで、あはははは」
「……」
「ええ、なにしろうちの部長がそうなもんで……」
 上司に恨みがあるらしい。
「剃り込みがどんどん広がってくる剃り込みハゲの人はだいたいいじわるで信用できないなもんで、あまりつき合わない方がいいもんで……」
 それはS機械のライバル会社Y精密工業の佐伯課長のことらしい。
 この人はいつもこんな調子で「もんでもんで」と喋りまくり、周りがすっかり白けてしまうというのがいつものパターンなのだ。
 白けてしまったらそのときにはすぐに退散すればいいのだけれど、白けてたままだとなんとなく帰りづらくなるものだ。
 そこでほんのちょっとでもウケけることを言って、その場が和んだ瞬間に腰を上げたいと思うのが人情というもの。
 そこで、モンデマンもなんとか笑いを取ろうとしているのである。
「ま、ハゲにはいろいろあるもんで、しかし……」
 モンデマンはタバコを灰皿に押しつけて身を乗り出し、久留米部長の前に顔をつきだした。
「なんと言っても極めつけはザビエルハゲ。あのカッパみたいに頭のてっぺんから禿げるザビエルハゲの男はだいたいドスケベで、ろくなもんじゃないもんで……。あはははは。あ、もうこんな時間なもんで、そろそろ……」
 モンデマンは久留米部長がすこしニコッと笑ったのを見ると、その瞬間をついて立ち上がった。
 白けてしまったけれど最後でやっとウケたと自負したせいか、やけにご機嫌にほほえみながら、モンデマンは応接室を出ていった。

「では失礼します」
 しかしそのほほえみは、最後にエレベータの中から挨拶した瞬間に、凍り付いてしまった。
 エレベーターホールの久留米部長が深々と頭を下げた、その瞬間に。

1999年6月22日(火) 健忘症は出世の秘訣

 我が社のパソコンは、ほんの数台しかインターネットに接続されていない。
 今までいくら「全社的に導入しましょう」と言っても、「そんなものは不要だ」と相手にしてもらえなかったのだ。
 しかしついに今回、会社のネットワークをインターネットにつなげることで全社的導入を図ろうという申請を行うことになったのである。
 起案者は僕。そして部長承認を経て担当常務承認までされれば実行に移せるのだ。
「おいヒラリーマン。こりゃダメだ。書き直せ」
 僕としては自信作を持っていったのだけれど、部長には駄目だといわれてしまった。
 しかし、ここは「そんなはずありません」なんて言わないで、頷いているに限る。言われたとおりに書き直す方が結果的に早いのである。
 どうしたら一番らくちんか。そういう思考回路こそが人類の進歩につながったのだから、それでいいのである。
「どこがダメでしょうか?」
「これはさ、つまり『インターネットは電話と同じくオフィスに必須のツールとなっているので当社でも導入すべきだ』って内容だよな」
「ええ、そうです。今じゃ名刺にだって書いてありますからね、普通は」
「しかしそれじゃだめだ。いいか、『いま何人から要望があって、どんな相手先とE-MAILをやりたいのか。これによってどんな利が生まれるか』。企業として書くべきものはこういうことだ。書き直せ」
「はい」
 僕はロボットのように、言われたとおりに書き直して、再度部長に提出した。

「おい、ヒラリーマン。ちょっとこい」
 翌日の朝、丁寧に鼻毛を抜いていたら、部長に手招きされた。
 連れて行かれた先は応接室。そこに待っていたのは常務なのである。
「おう来たか、ヒラリーマン君」
「おはようございます、常務」
「実はな、ヒラリーマン。昨日のインターネットの申請書を常務にお見せしたんだ」
 部長は座らずに、常務の横に立ってかしこまっている。
 常務はそんな部長をチラリと見上げると、どっしり座っていた上半身を前に起こし、両手を顎の下に固めて、口を開いた。
「見せてもらったよ、ヒラリーマン君。やりたいことはわかった。まぁ、それはいいだろう。しかしねぇ、内容がダメだな」
 こっちも一回で通るとは思っていない。またダメな箇所を聞いて、言われたとおりに直せばいい。そうすればOKなのだから、チョロイものなのだ。
「これは『必要としている人がこんなにいるからやりたいです』ってことだよな?」
「はい、それと利点を書きました」
「あのな、君のそういう仕事の仕方がまずいんだよ。いいかい。『要望があるからやる』じゃなくて、『オフィスに必要なものだから整備すべきだ』という観点が必要なんだ。今じゃインターネットなんて電話と同じくオフィス必須のツールだ。そういうことを書きたまえ!」
 僕はもうにっこりしてしまった。
 なんと、常務がおっしゃる内容は僕が最初に部長に持っていった内容そのものなのだ。
 だから部長は今、「あ、まずい」と思っているに違いない。
 そしてきっとこう言うだろう。「じ、実は常務。ヒラリーマン君がそう書いてきたのを私がこのように直させたのです。申し訳ありません」と。
 うはははは。これでまた僕の成績は上がるのだ。
「そういう仕事の仕方をしたまえ、ヒラリーマン君。わかったかね?」
「あのぅ」
 思った通り、部長がいたたまれずに口を開いた。
「おっしゃるとおりです。教育不足で申し訳ありません」
 げっ!
「本当にヒラリーマンはそういう観点での判断の仕方が出来ないと言うところが問題でして……。わかったな、ヒラリーマン。常務がおっしゃるように書き直しなさい」
 う……うそだろーーーっ!

 常務が応接室を出ていくと、僕は怒りを抑えつつ、部長に言った。
「ぶ、部長。さっきの『オフィスに必要だから』ってのは、僕が最初に書いた奴じゃないですか!?」
「え? あえ?」
「そう書いたら、部長が書き直せって言ったんでしょう!」
「あ……。ああ、そうだ。そうだった。なんか聞いたことあるセリフだなと思ったんだよ、常務がおっしゃったとき。ああ、そうか。お前、そう書いたんだっけ。わりぃ、わりぃ。なんかさぁ、歳を取ると物覚えが悪くなっちゃってな。うっかりしてた。んじゃ、頼んだぞ」
 くそ。
 やっぱり部長にまでなろうとするには、これくらい大物じゃないと無理らしいのだ。

「あ、そういえばヒラリーマン」
「なんすか?」
「先月飲みに行ったときに貸したワリカンの残りの1200円、返してくれよな」
「物覚え、いいじゃないですか、部長?」
「年寄りは、昔のことはよく覚えてんだよな」
 いやなジジイなのだ。

1999年6月24日(木) バミューダパンツで発想の転換

 昨日、いきなり思いも寄らない通知が電子掲示板に載っていた。
「6月28日より、ノーネクタイ、カジュアルウェアによる勤務を可能とする。総務部」
 お堅い我が社がいきなりカジュアルウェア。これは革命なのだ。
 なんでも、社長命令で行われる「意識改革」の一環なのだそうだ。

「おいヒラリーマン。おめー、カジュアルウェアっての、もってるか?」
「カジュアルって……そりゃぁありますよ」
「そーかぁ。俺はよ、昨日うちに帰って女房によ、『カジュアルウェアってうちにあるか?』って聞いたんだけどよ、トレーニングウェアしかねーってんだよ。どこに売ってんだ?」
 どうやら課長は、カジュアルウェアという服があると思っているらしい。まったく横文字に弱い人なのだ。
「カジュアルウェアってのはつまり普段着のことですよ」
「なんだ、そうか。でも、もってないなぁ」
「なに言ってるんですか、課長。普段土日に家で着ている服を着て会社に来ればいいんですよ。簡単じゃないですか」
「いいのか?」
「もちろんです」
「パジャマだぞ」
 いいわけないでしょ。

 カジュアルデーと称して、特定の曜日だけカジュアルウェアにする会社があるのは知っている。しかし、まるっきりカジュアルウェアにしてしまおうというのは、我が社としては凄いことだ。
 しかし、凄いことだからこそ、みんなは戸惑っているのである。
「スーツ買わなくてよくなるけどさ、よけい大変だよな」
「そうなんだよ。スーツは高いようだけど3着あればそれを順番に着ればいいだろ。だけどカジュアルとなれば3種類ってわけにはいかないよな」
「そうそう。それじゃ、『あら、また同じの着てる』なんて女子社員に言われるし……」
「彼女たちは以前から制服廃止してただろ。あれで結構着飾るのに金かけているらしいぞ」
「サラリーマンはスーツ代を必要経費として認めろなんて言ってたけどさ、考えてみれば学生服と同じで楽だったんだよな、この方が」
「だいたいカジュアルって言ってもGパンはダメらしいんだよ」
「そりゃそうだろ。バミューダにアロハ、ビーチサンダルなんてわけにはいかないよな」
「そうそう。節度ってのがあるよ。そんなことするのはヒラリーマンくらいだろ。な、ヒラリーマン?」
「は?」
「いえてる。あはははは」
 どういう意味だ、こんちくしょう。
「カジュアルウェアなんて、こう考えるとよけい迷惑だよなぁ」
 去年、カジュアルデーの提案を役員会が課長会に対して行ったとき、否定的な意見ばかりで、社長は大いに落胆したらしい。
「新しい発想、過去に引きずられない体制。それがこれからは必要なんだ。発想の転換こそが生き残る道だ。それなのにあの保守的な連中はなんだ!」
 非常に憤慨していたらしい。
 しかし、中堅社員もこの通り、同じように否定的なのである。

「ちょっと君たち」
 うわっ!
 なんと、その橋田社長がこの話を立ち聞きしていたのだ。
 突然の社長登場に、みんなは直立不動になってしまった。
「君たちまでそんな事じゃ困るぞ」
「は、はい」
「これからの人たちが、柔軟な発想ができなくてどうする!」
「申し訳ありません」
 社長は本気で「発想の転換」をキーワードに、今後の経営を推進して行くつもりらしいのである。

「いいか君たち。カジュアルウェアがOKになったからと言って、そんなに困ることはないだろう!?」
「はっ。ではさっそく買いに……」
 すると社長はペプシマンのように右手を腰、左手をパーにして我々の前に付きだし、そして我々をさとすように言ったのだ。
「よく考えなさい、君たち。カジュアルウェアがOKになっただけで、スーツだダメだとはどこにも書いてないだろ」
「ええ。そうしますと……」
「スーツを着ればいいじゃないか。頭を使いたまえ!」
 すげー発想の転換なのだ。

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Akiary v.0.51